2014年7月19日土曜日

庭のニュークリティシズム

『庭のイングランド』を書いた川崎寿彦氏が亡くなった後、「最後にもういちど彼がニュークリティシズムを考えてもよかった・・」という声があった。その声を発したのは、私の大学院での先生だったが、そのあと先生はポープの詩を取り出して、トピアリーを風刺する詩人の手並みを面白がったり、ポープを読んだついでにスウィフトの詩を取り上げたりしていた。私が大学院に出戻ってロマン派の研究を始めていたときのことである。川崎氏の若いころの著作では、ニュークリティシズムが論じられていた。アメリカにおける高等教育の広汎な浸透と並行して、人文学教育の定番ツールとなったニュークリティシズムのアプローチを、英文学科全盛の時代にまぶしく眺めたニホンジンは私より上の世代であるが、イギリス18世紀の庭と、ニュークリティシズムとの表象については思い当たることがある。
「そこが全世界」-である。庭も、一つの詩も。
風景庭園の領主は、彼のまわりに彼の世界を美しく整序する。
英語の詩は、作者もタイトルも告げられず一つの統一体として前に差し出される。この文字のまとまりには一つの世界があり、どの言葉も詩の中の他の多くの言葉とつながりあい、共鳴している。
外部のない内的な美の世界の快感、「現在」が永遠といった感覚の甘美さ。

さて、このように書くと、庭のイングランドは自己完結し、もうこの先はなにもなさそうである。川崎氏の逝去は1989年、続いて「失われた10年」が来る。失われたものは、経済だけではないのかもしれない。なにかの夢からさめれば、あの甘美であった緑の囲い地のイメージが夢であったと気づくのかもしれない。

2014年7月14日月曜日

コシカケくんたち

5月に北大の農学部の植物園を訪ねたときのことである。あった・・・・なんと何段にもなって、見事に生育しているサルノコシカケ。ここに写っている種が正確に何という名前なのか、さすがに植物園でも名札をつけているわけではないのだが。このような「サルノコシカケ」は意図的に植えるものではない。これは寄生するキノコの一種であって、害の多いものである。ウダイカンバと名札が付いているこの大木は、いつかこのキノコの菌にやられてしまうのだろうか。
 
このウダイカンバが生えているのは植物園の一番奥のエリアで、おそらくほとんど人が通らないところである。侵入者たちはこんなところに忍び込んでこっそりと栄養を盗んでいくのか。それとも、生育エリアは人間が勝手に考えたもので、コシカケくんたちはすくすくと育つことのできる環境をうまく手に入れたというだけのことなのか。
庭に境界線はない、なぜなら胞子や種は飛ぶから―と考えれば、場所論的にはなかなか複雑である。

2014年7月11日金曜日

赤い異国の花は


鮮やかな赤は気分をひきたたせる、が、こういう花が庭に生えていたほうがいいかどうか―オーストラリアから世界へと広がった花々の多くは、野性味とエキゾティズムを持ち合わせているが、だからといってこの花々を庭に植えると、ほかの草花との釣り合いにも悩むことになりそうである。このような日本にもふつうに生えてそうもない花は庭の中にうまくおさまるとは限らないが、この花の咲く領土への主権拡大をもくろむ心にとってみれば、この花を庭にもつことは一つの「成果」であり、誇るべき何かなのだろう。
戦前の日本で古寺を巡るのが流行り始めたころ、軍国主義は中国の奥地まで伸長しようとしていた。白鳳時代の仏の顔に似ている中国奥地の仏の図像を愛でた日本人の心は、オーストラリアの領土を主張したイギリス人が、こんな花を喜んだことと、どこか近いのだろうか。

はじめに

庭はどういう場所か―おそらく答えのない問いに、答えていく作業は、とはいえ来年の春に向かって種を植えるようなしぐさに似ている。
それでは、いつまで続くかとりあえず、始めてみる。